
今から思えばその前兆がないわけではなかった。父は自分の作風というものを見出してからデカルコマニーという技法を重要視していた。すなわち画布に絵の具を垂らし、その上から新聞紙でおさえたりパレットナイフでこすったりといった偶然的に出来上がる模様や形を作る技法であるが、父はその偶然に出来たシミを凝視することによって自らの内に沸きあがるイメージを描いていく描き方をしていた。
デカルコマニーに限らず、父はあらかじめ絵の設計図をきっちり決めて描いていくという手法はとらず、はじめに大まかな構図を作ったあとは、時間をかけてキャンバスを見つめ、その場その場で少しずつそこにモチーフを書き足していくという絵の描き方を採っている。
本人はユング派の箱庭療法になぞらえていたりもした方法であるが、どこで終わりにするかという点がこの絵の描き方の重要なところでもある。やはり、どこかで「あ、絵になった」とわかるものであり、そのスリリングな創造の場を私は長年間近で見ることができたわけだが、その「あ、絵になった」という完成の地点に行かない内に、もうこれで終わりにするというようなことが二度ほど起こった。しかし、父がそのことに無自覚であった筈はなく、やはり衰えていく体力を気力で補っていたのが限界に達してしまったというのが今だから言える真実であると思う(私はその時は一緒に暮らしていなかったので、これは後に母・美禰に聞き、実際にその時の絵を観て、この絵は父の本意ではないから発表せずにおこうと母と決めた)。
父は肝炎が発症してからは、基本的には寝ては描き、寝ては描きという非常につらい生活を続けていた。肝炎が発症したのが49歳。亡くなる16年前のことになる。
また父は「幼児のような無能を絵だけにつないできた」とも書いているが、この言葉は生前、父の口から何度も何度も聞いた言葉であった。自分には絵しかない。絵だけで社会と繋がっているのだという強烈な意識が常に父にはあった。
父が画家になることを決意したのは31歳のことであるが、その一因として7年間百貨店で勤め、自分にはどうしても勤まらない。実社会でやっていく能力がないと思ったことがあげられる。実際に職場でどうであったのか知る由はないが、そういう人間なんだ自分は、と父は私に話していた。
また、父がヨーロッパでの11年の滞在から帰国し、京都市立芸術大学の教授に推挙され就任するもその職を2年で辞することがあったが、その時も家族に話した理由は「自分には勤まらない」であった。教授の職というのは生活を安定させるものであるし、一般的に絵画の実習を看るという仕事がハードワークだとは想像されないが、父はその職を続けることに重圧を感じていたのである。
今回の展覧会を通じて、当時の教え子達と話す機会があったが、みな一様に「ユーモアがあって、面白くていい先生だった」と述べている。だとすれば、周りは何とも思っていないのに、本人が辛がっていたわけである。そのようなことから思いを巡らすと、確かに父は人との付き合いにおいて、とても繊細かつ一筋縄ではいかない感性の持ち主であった。しかし、複雑な内面は基本的に外には見せず家族の前でだけ表に出していたように思う。
父の自分の社会での居づらさという感覚はごく幼い小学校時代からのものであったようで、そうした話をよく父から聞かされたものであるが、幼少より一人で自然で遊び自然に親しんでいた背景にはそのような父の感覚が影響しているのかもしれない。
とにかく「幼児のような無能を絵だけにつないできた」父にとって、体力そして気力において絵が描けなくなることは、大きな絶望であり、それが死を選ばせることになったのではないだろうか。少なくとも母、私、妹はそう思い、これは画家の死であり、そのように公表することにしようと三人で決めた。
多くの人がなぜ自分で命を絶ったのか、と思われたようであるが、私が言えるようなことは、このようなことである。母が存命なら、ためらい書かなかっただろうと思われることも、私はできるだけありのままの姿を記すことがよいだろうと思い、書くことにした。まだ、様々な事情で、父の内面にとって影響を及ぼしたことなどについては書けないこともあるが、何十年後かに、もし父の作品に意義があり、要請があれば書くことができる日も来るかもしれない。ただ、個人的には作家とは作品によって作家たりえるものであり、作家の生き方が作品の価値を決めるものでないと考えていることは強調しておきたい。
しかし、このように客観的に書けるようになったのも父の死から十年が過ぎたからである。当時、大学生であった私も社会人となり、父が画家になることを決意した年齢に達したから分かることもたくさん出てきた。実生活においては非常に難しい時もある父であったが、今から思えば、何の気持ちの触れ幅もないような場で創作というものがありえるはずがなく、あれは当然であったという気持ちになったし、今ならばもう少し理解できたのに、という無念もある。
彼のもっとも素晴らしかった点は、本気で純粋に絵に取り組んでいた点で画家としては当然であるかもしれないが、資本主義下において、それは稀有なことのように思われる。人気を得たい、であるとか売れたい、という気持ちは全く持ち合わせなかった。もっとも、そういう芸当が出来るような性格であれば、社会でもう少しうまくやれていた訳で画家にはならなかっただろう。自分は社会では無能である。しかし死ぬぐらいであれば好きな絵を描きたい。そう父は思って画家になったと私に言っている。父にとっては絵を描くことこそが生きることであり、そして自分の存在理由が絵であった。
絵を描いている時の夢中な様は今もはっきりと記憶に残っており、そのことが最後に父を救うことができなかったという私の気持ちを少し楽にさせる。父には絵があって本当に良かったと思う。