麻田浩 Asada Hiroshi

年譜

一覧に戻る

1931年〜1951年

1931(昭和6) 

1027

京都市上京区(現在の北区)紫野北船岡町27番地に、父・辨次(1900-1984)、母・ツルの次男として生まれる。

父・辨次(1900-1984)は、日本画家(雅号辨自)。母・ツルも上村松園に日本画を学び、直園の雅号を受ける。また、兄・昴(1928-1987)も日本画家(雅号鷹司)となり、姉・妙子(のちに佐竹姓)との3人兄弟。



1934(昭和9)年   3歳 

10

京都市右京区龍安寺斎宮町2番地に転居し、後年この地にアトリエを構える。
幼年時代「一人で庭の端にひざまづいて、木の葉をみたり、小石を集めたり、下草をちぎったり、秋に木々がつける小さい実に触ってみたり、あきずにそうした孤独な遊びにふけったものだ。そこには充実した透明な時があった。その時が現在に至るまで細くたえず裡を流れて来ているように感じる。それはまず子供が手にする自然と世界であり、小さい部分への偏愛だった」と回顧する。

1938(昭和13)年   7歳

4月

京都市立御室尋常高等小学校尋常科(現在の京都市立御室小学校)に入学する。
昆虫採集や魚釣りに夢中の少年時代を過ごしたという。

1944(昭和19)年   12歳

4月

京都市立第二商業学校(のちに同校内に、京都市立北野中学校が併設される)に入学するが、1年生時より学徒動員となり、市内の工場でも働く。
この頃、森本次男の薫陶を得て山岳部に入部し、登山に熱中する。


1947(昭和22)年   
15歳 

4月

京都市立第一商業学校(現在の京都市立西京高等学校)に入学する。


1948(昭和23)年   16歳

京都府立山城高等学校に編入学する。
三浦雄一郎氏(のちのプロ・スキーヤー)に冬山スキーの指導を受ける。

京二商山岳部会報『燈(やまみち)』(第3号)に「北攝龍王山地獄谷峠」を寄稿する。


1949(昭和24)年

3年生時、傾倒していたリルケの『マルテの手記(手紙)』を原語で読もうと思いたち、ドイツ語を習い始める。のちの大学生時には、ドイツ語は常に優秀な成績であった。


1950(昭和25)年
   18歳   

3月

京都府立山城高等学校を卒業する。

1951(昭和26)年   19歳

4月

同志社大学経済学部に入学する。
黒田英三郎教授を顧問とするサークル「鞍馬画会」に所属する。
一覧に戻る