麻田浩 Asada Hiroshi

回顧

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2.ヨーロッパ生活

麻田
一度ヨーロッパを見てみたいと思っていましたところ、当時、ヨーロッパヘ行くのはなかなか大変だったのですが、チャンスがありまして勤めを辞めた年の初夏に出かけることができました。ぐるりと美術館などヨーロッパ全体をまわりました。家や街や自然を見て、その奥深い伝統の流れを身にしみて感じるようになりました。それで秋になってパリにもうしばらく滞在したいと思い、安い女中用の天井部屋で過ごしました。
ヨーロッパは、春から夏にかけて花が咲いたような美しさです。九月に入ると突然ひえびえとして、冷たい氷雨が降ります。街は、すべて石か漆喰。石畳の路、黒々とした石の建造物の存在感が重くのしかかり、この街から自分が拒絶されている様に思え、この地で詩人リルケが"マルテの手記"を書いたことが切実に想い出されました。その後の自分をきめる大切な旅でした。
そして日本へ帰ってきて、またアルバイトの生活をしていました。非常勤アルバイトは安いですよね。芸短大の前身の専門学校、成安女子短大、京都芸大など他いくつか行きました。週のうちずっと外へ出ているのですね。「絵を描くはずではなかったのか」と初心を思い本気で絵を描く決心をしました。
そして、ついに再び一九七一年に半年、できれば丸一年、ヨーロッパに住んでみることにして出かけて行きました。
ヨーロッパは旅行者として行くのはいいのですが、そこに住みつくとなると話は別です。当然のこととはいえ、さまざまの厄介が待ち受けています。まずは滞在許可証。フランスのお役所仕事を、つたないフランス語を操りつつかいくぐってこれを手にする難儀には頬が一挙にこけます。(笑)滞在許可証をやっと貰えると、宝みたいなものです。最近、高橋たか子さんも小説「亡命者」の中で、この煩瑣な心理的苦痛をしいることがらを迫真の描写で書いておられます。皆同じように感じたんですね。
苦労の末、住居を見つけて、さてヨーロッパでは、何をするか。ヨーロッパ滞在について私は、具体的なことの計画は一切たてていませんでした。やはり日本でこそ制作できていても、場所を変えると不思議と制作できない。理由はいろいろあるのでしょうが、説明しにくいですね。とにかく自分の作品ができないのです。生活のことは、日本の画廊と契約をして細々とは成り立ちましたけれど。
フランス社会に知り合いが特にあるわけでもなく、紹介されたりして、とりあえず知り合いになって一晩食事に呼ばれても、双方、言葉の問題もあり、話が合うわけでもなかったりで切れてしまう。
ある日偶然、街で世界的にも有名な色彩銅版画家フリードランデールの作品を画廊で見かけました。彼の版画は、昔から好きでしたので、その画廊に飛び込んで「フリードランデールの住所を知っているか」と聞きました。すると名刺の裏に書いてくれたのです。それを持ってさっそくアトリエに先生をたずねました。「銅版画を習いたいんだ」と言ったら、「明日から来なさい」と言われました。
翌日行くと私のために新しい版が用意してあり、一から教えてくれました。日本人が好きだから、日本の美術を尊敬しているから教えていただけたと後からわかりました。技術の習得は、一年や二年ではできません。自分らしい作品ができるのは、三年、五年かかりました。先生も老年にさしかかっておられ、結果的には私が最後の弟子ということになりました。運がよかったと思っています。
フリードランデール先生は、凹版画の工房として二百年の伝統をもつルブラン工房の一角に自分自身のアトリエを持ち、そこで後輩指導をしつつ制作しておられました。アトリエでは国籍のさまざまなアーティスト達が学びながら制作している、刷り工房では大勢のフランス人の職人達が世界中の市場へ出ていく版画を刷っている、それを扱う画商達が来る、自作の版の刷りを職人達に指図するためにアーティスト達が来る、そんな環境に居場所を得て、自分が拒否されているという重圧感を感じつづけていたパリが次第に親しみのあるものになってきまして、ぼちぼちと自分の絵が出来始めました。版画の方もちょっと作品らしきものが生まれて来ました。
ある日、私の版画を街で見かけた画商さんがデッサンなどを見せてくれと家へ尋ねて来ました。そして銅版画をエディションするから、版を二枚作って欲しいと言われました。私はそれを日本人流にお世辞を言われたと思っていましたら、一週間前にもうできているかと連絡があり、驚きあわてて、急いで一週間で二枚仕上げました。OKでした。エディションというのは、原版を買って限定出版する、仲々収入もいいのです。それから、版元や画商との関係も本格的に始まりました。
ルブラン工房や先生のアトリエを訪ねてくる各国からの画商に今面白い人がいるかと聞かれると先生は「麻田のを見ろ」とおっしゃって下さり、アメリカ、ドイツなどに関係ができました。知人、友人もぽつりぽつり出来てきました。何しろ版画、油絵という仲介があるものですから、話題があるのです。夜には招かれて、喋る訳です。全く話せなかったフランス語が少しずつ話せる様になりました。
しかし、日本で一年間自分としては猛勉強をしていきましたので多少は文法はわかりましたが、喋るとスピードが全然違いましたね。そしてもう少し居よう、生活を続けようということで、結局一九七一年〜一九八二年まで足掛け十二年いました。

梅原
そこであなたは、アンフォルメルの運動に参加したのですか。

麻田
いいえ、時代はかわり、一九七〇年代にはもうアンフォルメルは全く沈下していました。
ポツリポツリとそういう作風の作家はいましたが、私自身すでにすっかり具象の表現をとるようになっていました。私のいた期問には、特にこれといった美術運動もなく、向こうへ学びに行って具体的に眼に見えるかたちで何物かを得てこようと思っている人には非常に不満な状態だったと思います。それだけに、自由ではあるが自分自身の間題を厳しく間われる時代でした。
パリ高等美術学校も五月革命の余波で教室は実質的には機能してなかったのですが、それでも、自由に出入りできるエレーヴ・リーブル即ち自由学生制があり、年に三十フラン払うと年齢に関係なしで教室の教授の所で勉強できます。私もこの自由学生として時々出入りしていました。刷り機など皆が使う物はガタがきているのですが、フエルトだけ上等の自分の物を持って行って刷っていました。
その頃には私はサロン・ド・ソシエテ・ナショナル・デ・ボザールの会員にも、サロン・ドードンヌの会員にもなっていました。刷り工房では、活躍中の画家達と知り合うこととなり、その交流を通じて、如何にして個人としての一人の人間が画家になって行くのか、その課程を見る事が出来ました。
ウイーン派町エルンスト・フックス(Ernst Fucksオーストリア1931−)ドイツのメクゼッパー(MecksePer1956−)日本の浜口陽三氏などを知りました。絵描きは自己中心であり、これは大変なエゴイストであり、大きな犠牲が裏にあることなどを学びました。一介の労働者の様に、朝から夜まで飾り気なく唯々仕事に立ち向っていく、自我の強さも知りました。
当時パリで大活躍中のダド(DADOユーゴスラビア1933−)が張らした巨大なキャンバスが画材店に置いてあったりするわけです。彼等と同時代を生き同じ空気を吸っているんだ、
私もその様に生きたいと思いました。

梅原
麻田さんが一番影響の受けた人は誰ですか。

麻田
ヨーロッパに限ると、古い所ではイタリアの初期ルネサンス、特にシエナ派の画家、北方ルネサンスには大変影響をうけました。ボツシユやグリューネバルトは特に好きです。そして当時のパリの作家では先出のダド、版画家のメクゼツパーなどです。パリはパリだけと完結しているように思いますが実際には、パリを発表の場にしているスペインの作家などいろいろいるわけです。展覧会をしにパリに来るのです。制作は自分の生まれた国に帰ってする。
今、日本でも有名なロペス・ガルシア(LoPez Garcia1936−)のようなスペイン派もいたし、ウイーン派のフツクス、ヴンダーリツヒ(Wunderlich1927−)、タピエス(TaPiesスイス1923−)そういう人達と工房で会うんですね。この人達から影響をうけました。
今でも意気消沈した時に、彼らは孤独に耐え、しかも社会とたたかいつつ、しがみついてやっているに違いないと思い出し、勇気づけられます。

梅原
アンフォルメルの運動とはどう繋がるのですか。

麻田
アンフォルメルの時期は、日本にいてヨーロッパで流行っているということで向こうから情報が流れて来て、若い私は影響をうけましたが、後年ヨーロッパを知り私なりに、この運動を位置づけて通過したのだと思います。今でも当時の作品を多少保存していますが。

梅原
それは前ですね。

麻田
はい、一九五〇年代〜一九六〇年代までです。
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