麻田浩 Asada Hiroshi

回顧

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1.絵を描く決心

梅原

昔からあなたの作品を見せていただいていますが、今までまとめて見る機会がありませんでした。1点ずつ見ると作家が何を考えていたのか、あまりわかりませんが、一生の仕事をまとめて見ると大体その作家の考えていることがわかるんですよね。

この間あなたの作品を見せていただいて、あなたの考えていることが、私ながらにわかった気がしました。正直言って久しぶりに良い芸術を見たと感動しました。

麻田

先生からそのようなお言葉をいただき、大変うれしく思います。1995年7月、第13回宮本三郎記念賞を受賞しました。この賞には、東京での自選展開催が含まれています。私の場合は、関西からははじめての受賞ということで同じ展覧会が京都でも開かれました。回顧展のような形式で、今に到るほぼ20年の私の仕事の中から出品可能のものを自選しました。

ほぼ20年前と言いますと、1971年に私がフランスヘ移住してから3、4年が経った頃のことです。この辺りから、今の私の画風がはっきりと姿をあらわしてきているものですから、ちょうど展覧会の規模にも適した具合のいい区切りかただと考えまして。それを先生にも見ていただいたのですが、今ここでそれ以前50年代から60年代にはどんな絵を描いてきたのか、一寸話します。
私は、美術学校での美術教育を一切受けていませんのですが、新制作協会の桑田道夫先生の指導される研究所に通い、対象物を実体として観察し、造形的に把握する油絵の伝統的描き方の初歩を学びました。大学生の頃です。

私が絵を描きはじめて、2、3年後日本、ヨーロッパ、同時に、アンフォルメル運動の津汲がおしよせ、若い私は、たちまち感化されて、ぶあついマチエールの壁の様な非具象の絵画にのめりこんでいきました。1960年代は、美術界は、ある種熱気のある燃えた時期でした。

当時朝日新聞の美術記者橋本喜三氏が企画された、若い作家を招待した"朝日新人展"が毎年開催されていました。私は私なりのアンフォルメルをやっていました。この様な仕事では、京都で先覚者であった森本岩雄さん(現在京都市立芸大名誉教授)と知り合ったのもこの新人展を通じてで、それ以来ずっとその頃と同じ気持ちで刺激していただきながら制作してくることができました。

美術大学の学友というものを持たない私にとって大変貴重な出会いであったと有難く思っています。森本さんはずっとアンフォルメルを貫かれましたが、私のほうは、60年代半ばあたりから具象表現に徐々に変わっていきました。
このように10代の終わりから絵はずっと描いていたわけですが、絵描きになろうとは思っておらず、私は大学の経済学部で学び、卒業後は実業社会に丸7年いました。

梅原

あなたは麻田辨自さんの息子さんで、お兄さんも優れた日本画家でありながら、あなたは自分は絵描きにならないと思って大学の経済学部に行ったのですか。

麻田

経済的にもきびしい時代でしたからね。戦後はなんとか、一時凌ぎしたいという気持ちですね。

梅原

絵描きになっても食っていけないから、せめて飯を食おうと思って経済学部へ行ったのですか。(笑)

やはり蛙の子は蛙の子ですね。蛙に戻ってきたのですね。仕事は何をしていたのですか。


麻田

百貨店で働いていました。でもどうも勤めていて私は職場の邪魔になっているような気がするんですよね。

梅原

何をされていたのですか。

麻田

婦人服地売り場です。

梅原

それは無理でしょう。(笑)

麻田

1955年〜1962年まで勤めました。その当時は、月に一度休みがあったらいい時代でした。体を動かすという意味においては猛烈社員でした。


梅原

そのころ絵は描こうと思っていましたか。

麻田

先にも言いましたようにずっと描いていました。発表のほうも、在学中入選した新制作展には入選をつづけていました。

梅原

洋画ですか。

麻田

油絵です。百貨店を辞めてからは、アルバイトに明け暮れました。

梅原

いい年齢で、奥さんもあったでしょう。

麻田

実業の職場で落ちこぼれてしまって、もはや、絵を描きながらなんとか生きていけたらと考えるしかなかったわけですから、結婚出来ないだろうと思っていて、結婚のことは考えていませんでした。

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